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17 Jun 2021

夜、厚東川を渡る

厚東川より 宇部興産工場

厚東川より 宇部興産工場

先日の夜 長門本山駅からの帰路、徒歩で宇部市内 新川駅方面へ。

厚東川を 海から数えて興産大橋の次の橋 湾岸道路の真下を歩いて渡ったのですが 渡りきると そこより直進は自動車専用道路になります。

残酷な標識の前にポツネンとたたずむ私の横と上を  数多自動車が行きすぎます。

さらに徒歩にて東に行くには 川沿いの真っ暗な道を北へ 小野田線鉄橋付近 居能駅近くまで歩かなければなりません。暗闇の中 魚でしょうか 時おり「ぽちゃん」と川面が立てる音を聴きながら 迂回時間は徒歩にて20分ほどかかってしまいました。私はいい大人ですが  寒々としたおっかなさに見まわれ 体感的には1時間ほど遠まわりさせられた気分でした。

往路電車で 20分、復路徒にて2時間。地元の人にとって 小野田線は絶対に必要ということを 脚をもって感じました。

12 Jun 2021

昨日 知人の誕生日の贈り物として"にじゆらてぬぐい"を買いにご近所の「ギャラクシーふくなが」へ。まさに色とりどりの手拭いを気持ちよく見漁っていると 背中より先客の女性の声が「おひつじ座以外に羊ってありましたかね」と店主にご質問。

店主「めひつじ座はないでしょう」

女性「その他のひつじ年とか」

手拭いの柄に12星座のシリーズがあり 羊の柄のものをご所望のようです。しかし星座に固着しているわけではないらしい。私が理由を知りたがって耳を立てているとどうやら贈り先の相手の名前に「羊」の字が使われているからとのこと。

店主「めずらしいですね」

確かにめずらしい。私も吉田羊しか知らない。

ここからちょっと漢字うんちくを傾けますと 部首としての「羊」は良い意味の漢字を構成していることが多く 大きな羊は「美」、魚と羊で「鮮」、我の羊は「義」となります。他にも「羊羹」には3匹も「羊」が入ってますし、「祥」「翔」「善」などは人名にてよく見かけます。しかし やはり 「羊 」の字が単独で入る名はあまり見かけませんね。

もう少しお二人の話を拝聴したく また羊の柄も拝見したかったのですが 人を待たせておりましたので 私も手拭いを購入し お店を出ました。

ちなみに私が話に耳を傾けながら選んだ手拭いは 白地に藍のあみだくじをあしらったシンプルなものです。作業工程で滲みが出るらしく 一枚とて全く同じではないそうです。滲んで揺らぐ"にじゆらてぬぐい"私も自分用に欲しくなりました。もちろん山羊柄です。 


「にじゆらてぬぐい」ギャラクシーふくなが

〒755-0029 山口県宇部市新天町1丁目2−27

大型写真集「人形見」                     写真 たかはしじゅんいち  人形  伽羅

大型写真集「人形見」 写真 たかはしじゅんいち 人形 伽羅

8 Jun 2021

長門本山駅

先日紹介した久保 真治の「本山線クモハ 」の解説を書き 現在の本山線も見ておくべきだと思い 昨日初乗車いたしました。

17時57分宇部新川発 小野田行き。

5月にも小野田線に乗る機会がありました。宇部線と同じく高校生の貴重な足として逞しく活躍しているようです。

夕方でも日差しは高く強く 向かいに座った男子生徒が食べていたカップのアイスクリームが美味しそうでした。太陽も夏服もラクトアイスも 白く眩しく見えました。

居能駅でさらに高校生を乗せて 厚東川を渡ります。陽の角度も手伝って 宇部線からの景色と比べ 興産大橋に迫力があります。

雀田駅にて今日の目的である本山線に乗りかえます。

久保 真治の絵画が2003年の作品でしたので 少し期待したのですが車輌は小野田線、宇部線と同じでした。もちろん クモハ。

この駅で別れる女子生徒が 発車ギリギリまで話していて 運転士に急かされていました。違う制服でしたので 久しぶりに出会って会話を弾ませたのかも知れません。

車内は異邦人の私を除くと女子生徒が3人と後2人。朝2本と夕1本の本山線はこの人たちのためにあるのです。さらに浜河内(はまこうち)駅で4人おりました。私は運転士と最後の乗客に「こいつ誰だよ」と思われていたのではないでしょうか。

長門本山駅は潮の香のする無人の終着駅です。海岸の太陽は夕日と言うにはまだ高く 私はカミュの「異邦人」を連想しました。振り返ると最後の女子生徒の姿はもうなく 私を運んだ車両も運転士も20分後には引き返し今日の仕事をきっちりと終えることでしょう。


宇部新川ー長門本山 片道 210 円。

ここで少し散策して折り返しの便で帰路につくだけでも ちょっとした気分転換になるのではないでしょうか。

私は折りかえしの便には乗らず 陽が落ちる周防灘を1時間ばかり見て徒歩で帰りました。

3 Jun 2021

本山線 クモハ

「本山線 クモハ」2003 年 久保 真治  P 5 号

「本山線 クモハ」2003 年 久保 真治 P 5 号

小野田線の支線で朝 2 回、夕に 1 回 雀田駅と長門本山駅を往復しています。長門本山駅は無人の終着駅で その先は周防灘が広がり九州が 望めます。 夕の便ですと宇部新川駅を 17 : 57 に発ち雀田で乗りかえて  18 : 17  長門本山駅。付近を散策したら 20 分後に引き返す列車に乗って お帰りの宇部新川が  19:02 です。

 1 時間ほどのプチ旅行で 季節によっては浜辺から素晴らしい夕日が見れるかもしれません。


クモハ

国鉄時代から使われている車両記号です。

ク=駆動車(運転席を有す)  モ=電動車  ハ=イロハのハ 三等席 

だそうです。


久保 真治 作品 5点  今月 27 日まで 1 階にて無料展示中。

1 Jun 2021

真締川橋

私が「川」と聞いて一等先に思いうかべるのはこの川です。五十路手前まで宇部市の他 幾つかの町で過ごしましたが そばにあまり川がなかったのでしょうか。たとえ川は有っても 橋を頻繁に行き来した記憶は 時折りほのかな潮の香のするこの真締川の流れの上のものばかりです。

かつて私は四国に住み 年に2回ほどから帰省しておりました。宇部新川駅でおり徒歩にてこの橋を渡り家路につくのですが 毎度干満により水位はいつも違い 川幅も私の気分や状況次第で長くなったり 短くなったり。立ちどまり 深呼吸して意を決し歩を進めることも幾度と言わんや。

昨夕 画家をまねて写真を撮りました。シャッターを切るまで7、8分ほど悩み、その後30秒で切りあげました。改めて構図の重要さを覚えました。ただおこがましくも申しあげるとこの画家も速書きのように見うけます。流れる川に長居は無用なのでしょうか。


画は 久保 真治 作。

上の画は 1955 年の作品です。

28 May 2021

逍遥自在

逍雲堂美術館に関しよく質問されるのは「逍」ってなんて読むのかということです。来館者だけでなく宅配員にも尋ねられます。普段から傲岸不遜な私もここは丁寧に答えます。私もここに勤めていなければ読めなかったでしょう。

この字は「ショウ」と読み また「逍う」と書き「さまよう」と読みます。

明治に活躍した作家 坪内逍遥の「逍」でパソコンの入力の際 よく名をお借りします。

しかしこの「逍遥」という言葉よくよく見ると不思議です。一つの謎をはらんでいます。

「逍」も「遥」部首は"しんにょう"ですが 「逍」は"二点しんにょう"なのに「遥」は"一点しんにょう"です。

この謎解きをするためには坪内の活躍した明治時代に遡らなければなりません。

欧米列強に負けじと近代化へ邁進する明治政府は 漢字を法律で制定しようとしました。このときに模範とされたのが中国・清の時代に編纂(へんさん)された『康煕字典(こうきじてん)』でした。つまり 1700年頃の中国で正しいとされていた漢字の形が「二点しんにょう」であったため当時の政府はそれを取り入れたのです。『康煕字典』以前「一点しんにょう」が正式な形とされていた時代もあり 中国・唐の初期(西暦650年ころ)にあたります。書道の世界では楷書の手本は唐の初期にあり 二点しんにょうが制定される以前も以後も 一点しんにょうで書き 書道に関わりのない一般人にとっても一点しんにょうが主流でした。

時は流れて第二次世界大戦の終結後。日本の政府はより効率のよい教育を目指して それまで学校で教えていた「常用漢字」の一部を簡略化するという計画を実行しました。このとき、「二点しんにょう」がまとめて「一点しんにょう」に変更されたのです。ただ常用漢字とされなかった「逍」「邁」や 国字である「辷」さえも取りのこされるかたちとなりました。

ちなみに「遜」 「謎」「遡」は二点しんにょうですが 2010年に晴れて常用漢字の仲間入りです。この際は一点しんにょうにはなりませんでした。もうすでに定着したフォント等を変更するのは誰も得しないですものね。

つまりは"一点しんにょう""二点しんにょう"について 文科省(当時は文部省)の都合ですので 人名やテストでなければあまり気にせずともよいということです。

長い歴史を持つ漢字も 逍遥自在に変化しているようです。辷った。



18 May 2021

残 さ れ た も の

https://www.google.co.jp/urlsa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwi9uezduNDwAhWtxIsBHcUFDCEQwqsBMAB6BAgIEAE&url=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DBLJKdJL_clQ&usg=AOvVaw2t5dPlUjPpk5xgD_NsEFiu
昨日 彼女の死を父より聞きましたが 誰のことだか思い出せませんでした。
夕方 友人より彼女の写真が送られて かつて 彼女の言葉に勇気づけられていたことを思いだしました。
彼女に会うために 初めて私は 天国を目指します。
地獄も厭わないとの考えでしたが 会いたくない面子が多くいそうです。
下の動画で 彼女の力強い声を聞くことができます。
亡くなってもなお 私の道標になっている人です。

17 May 2021

宗 隣 寺  と  龍 心 庭

今朝は 仕事前の散歩がてら 宇部空港まで薔薇を愛でに行こうと考えていました。

しかし雨模様でしたので 180 度方向を変え 真締川中流域の西にある「宗隣寺」に目的地を変更いたしました。空港で観れる濡れた鮮やかな花々も それとして美しいでしょうが 湿った川沿いを歩き 雑音を失った庭園を楽しむ朝の過ごしかたが 雨の日に適していると感じたのです。

市役所の横から真締川沿いを モニュメントに道草しながら 医大の前に出ます。ここに来ると真締川の景色がはらりと開けたように映ります。私の好きな場所の一つです。

いつもお世話になっている「ふじた画房」がまだ開店前であることを確認して さらに北へ。ずっと気になっており 未だに行けずのフレンチ「Restaurant Noel」は当然開店前、贅沢の言い訳にできる次の記念日はいつがあったかと思案していると 「国指定名勝 宗隣寺 龍心庭」の案内が見えました。

少しの坂と少しの階段を登ると 木陰に趣のある門があります。私、生来の天邪鬼ゆえに門はくぐらず左手の山道から迂廻して境内に入ろうとしましたが これが全くの明後日へ行く道。引き返し 今度は門の右手にある駐車場側から 綺麗に石の引きつめられた中庭へ。女性が二人 やまない霧雨を気にせず 草木の手入れをしていました。ここは臨済宗のお寺ですので朝のお勤めでしょうか。

私は和尚と朝の挨拶をして拝観料 300 円 を支払い お寺へ上がります。入り口に下駄箱があり スリッパに履きかえるのですが ここで喫驚。卸したての白いスニーカーが土と草いきれでしっかりと汚れているではないですか。先ほどの山道への迂回路は確かに土の道 ぬかるんでおりました。そもそも なぜ雨の日の散歩に白く新しい靴を選んだのだろうか。

煩悩、物欲をはき捨てお寺の北側に廻り いざ「龍心庭」へ。「夜泊石(よどまりいし)」と呼ばれる意匠が林の手前の池の上に 浮かぶように点在して 私を待っていてくれました。スピーカーから説明が流れます。まさかと思いメーカーを見るとBOSEでした。やはりというべきか。「夜泊石」は蓬莱へ向かう集団船が 夜のうちに船溜まりに停泊している姿を抽象的に表現したものだそうです。さらに畔には 小石を敷いて池の水位の上下により 海の干潮と満潮を表した「干潟様(ひがたよう)」と呼ばれる嗜好が凝らされています。現存する干潟様は平泉の毛越寺とここだけといわれ 大変貴重なものとのことです。

スピーカーから流れる説明を独りじめした後 スリッパを脱ぎ廊下にある欄干から足を出し(これが正しい鑑賞スタイルとのこと) かぐや姫に求婚して玉の枝のため蓬莱を目指した彼はどうなったんだっけなどと考えながら しばらく小雨による淡い波紋を眺めて 靴の選択は誤ったが 散歩コースの選択は 然りとでたとひとり満悦した雨の午前でした。


宗隣寺 龍心庭

奈良時代(777年)に唐より来朝した和尚によって普済寺(ふさいじ)として創建。室町時代の南北朝時代(1336~1392年)に「龍心庭(竜心庭)」が造られる。江戸時代(1670年)に宇部の領主が、父の冥福を祈るため荒れていた普済寺の地として「宗隣寺」を再興。昭和43年(1968)に復元工事が行われ、昭和58年(1983)に国指定名勝を受ける。


山口県宇部市大字小串210

宇部空港 車で約15分

駐車場      あり(無料)

開園時間  午前9時~午後5時

16 May 2021

薔 薇

Pierre de Ronsard

Pierre de Ronsard

5 月から新天町アーケード内を華やかにしてくれている色とりどりのバラ。

逍雲堂美術館の向かいの花も今が満開です。

枝にしがみつきつつ枯れながらも散っていく様を 以前は好んでいなかったように思います。

椿の花のように「ぽとり」と落ちる潔さに憧れていたのでしょう。

しかし 近頃では美しい時も醜い時もどちらも 責任を持って生きているのであれば その方が素晴らしいのではないかと考えるようになりました。

私も五十が見えてきたからでしょうか。

昨日は雨でした。

雨に濡れたバラもまた 艶やかで 愛でたきものです。

14 May 2021

宇部線 高校生 たんぽぽ

昨日は博物館協会の総会に出るため山口市へ。琴芝駅から30年ぶりに宇部線の東回りに乗りました。テスト期間なのでしょうか まだ昼前なのに多くの高校生が乗り降りします。黒いスーツとネクタイでは少し汗ばむ陽気で、車内の扇風機の風と海沿いゆっくり流れる景色が心地よかった。宇部線も山口線も高校生も元気です。山口駅に着くと 左肩にたんぽぽの綿毛がついていました。
7 May 2021

85 年のタイトルトンネル

『思想の科学』という雑誌を整理していると まるで今日であるかのようなエッセイを見つけました。1964 年 9 月号 「ベルリン・東京・オリンピックまひ」。柳田 邦夫による文章は 37 年の時を超えてやってきたのでしょうか。この年は山陰で豪雨災害があったそうです。多くの犠牲が出たそうですが 私は全く知りませんでした。 流石にコロナ禍が後の世に伝わらないとは 考えにくいですが やはり似ています。構造という意味においては もはやトレース。
1936 年 ベルリン、1964 年 東京、2021 年 東京。人類は早急にこのトンネルから脱けだすべきだと思います。願わくば 近代オリンピックがはやく過去の遺産となって この随想をタイムトラベルのように味わえたらと夢みます。
当館には『思想の科学』『暮らしの手帖』『週刊金曜日』などのバックナンバー多数あります。ご興味がおありでしたら 読みにいらしてください。

『思想の科学』(しそうのかがく)は、1946年から1996年まで刊行された日本の月刊思想誌。鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子の7人の同人が太平洋協会出版部内に先駆社を創立し創刊した。命名者は上田辰之助。
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